昭和44年7月24日 朝の御理解 【入力者:五徳】
御理解第71節
『ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。』
今日は、ここの、一番最初のところのね、「ここへは信心のけいこをしに来るのである」と。「よくけいこをして帰れ。」と、ここのところに焦点を置いて、お話を聞いて頂きたいと思います。
えー、先のほうも、やはり分かっており、( ? )とあります、このご理解を頂いておりますと、おー、えー余韻があったりすれば、すで置いて参ってくるわけにはいかんと、(?ひよとり)を置いてくるわけにはいかんとか、えー、「まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ」とこう、いうふうにこう、いっぺん(?とりこうみこ)出しただけでは、うんー、ほんとになんちゅんですか、ね、寛大な、あーその稽古の仕方を、言うておられるように聞こえますですね。言うなら、暇ん時参ってけというですから。
ところが、実を言うたら、この暇な時というふうに、まめな時という、言うておられます。実はお互い、まめな時の方が多いんですよ。ね。そうでしょうが。家ん中に病人があった(?っちのが、参ったには)残っちゃありません。
もちろんそういうところから、無心のおかげを頂く人がたくさんあるんですけれども、だんだん信心の稽古さして頂いて分かることは、いわゆる何でもないときのほうが多いのです。ですから、ところが、そのー、なんか起ってくると、お伺いでもせなければならんというようなことになってくると、お参りをして来る。
まめな時には、言うならば、信心の稽古をおろそかにしておる。ね、というふうに頂きますと、これは大変厳しい。信心の、何の稽古でもおんなしこと。ね、やはり、厳しいという事を感じます。
何か、おかげを、これはどうでん今日お参りせにゃいけん。おかげ頂かにゃいけんからと、いうようなことになってまいりますと、朝参りどん始めようか、といったような事になるのですねぇ。
なるほどその問題を通して、信心が分かっていけばいいのですけれども、中々ね、難儀を持っておる時には、本当は、あー、信心がそん時にできるのですけれども、難儀な事で頭がいっぱいですからね、稽古の事やらは、例えばお金ならお金に、もう一生懸命の修行させられておる時にはですね、もうその、お金の、区分の事ばーっかししか頭にない。
ね、ですから、中々、どんなに良い話を頂きよっても、頭の中には、その難儀を感じて、そのことだけで、その耳に入らないというのが、これが普通一般なんです。ね、だんだん本当は、またそういう難儀の中から、いよいよ御神意を悟らしてもらうということも、おー言えますけれども、ですから、言うならまめな時、なんでもない時、本気で稽古をさせて頂いておこうというものが大事だといういう事を、ここでは教えておられるんだと思いますよね。そこ辺を、楽な方へとらんようにしなきゃいけません。
「まめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけ」。ところがその、まめな時にはおろそかにしておる。さぁ何かという時、ね、お参りしてくるというような事ではいけんのぞということを、ま最後のところでは分からなきゃなりませんが、今日はその一番初めのところを、ここへは信心の稽古にしに、稽古にくるのである。よく稽古をして帰れと、というとこ。
どうでしょうかね、信心の稽古ができておる。こうしてお参りをしてき、御理解はこうやって日々聞いておる。だんだんおかげを頂いて、え、(?教理)、ね、えーだんだん詳しゅうなってまいります。ね。
ところがここで、信心の稽古をしにくるのである。よく稽古をして帰れというのはね、夜の夜中、どういうことがあるとも限らん、ね。おかげはわが家で受けよと仰る、その、おかげはわが家で受けれるような、信心の稽古に繋がっておかなければならないのですよ。
ただ毎日毎日、信心の稽古に通いよる。そして、家に帰ってさぁという時には、もう( ? )もっと。そういうだから稽古では、ここでは稽古にならんのです。ね。
信心の稽古をさして頂こうと思いますと、おー一日中、も信心の稽古をさしてもらう材料はいっぱいある訳なんですよね。
私の、控えに、えー、額に入っとります三代様のお書き下げ、信心の稽古と、おー平仮名で書いて、えー、まあります。それがそこにあります。それを見るたんびんに、信心の、もう、なーんでもない時でも、いつでも、それを見ながら思うんです。信心の稽古、信心の稽古と。ね。
ところがですね、私ども、例えばこうして、皆さん朝のお参りをされて、朝のお参りをされる。そして、その朝のお参りをされる時に、信心の稽古をしてです、そして、今日は、これならば稽古ができるぞといったようなものをね、これに頂いて帰る。帰らなければ、ここには信心の稽古に通ってきたことにはならん。ご理解ならご理解を、みんな書き写したりして、覚えたりして、帰っただけではいかん。
心の状態が、あ、この心の状態ならば、一事が万事、この心の状態で、すべてのことを見たり、聞いたり、それに接したりすることであれば、今日はおかげが頂けれるぞと、自分の心に何回も何回も、ピタッとくるものをですね、・・・。御祈念しても、なんかこう、こう、おーピタッと来ない。
皆さん、御祈念をなさる時に、ただ眠かばーっかりで、えーどげなふうに唱えたじゃ分からないな時もございますでしょうが、お話を頂いておっても、ぜんぜん、ただ聞いておるだけで、分からないことがあるでしょう、ありますよ人間ですから。そういう時には、言うならば、御祈念を頂きなおさにゃいけませんね。
何がなにやら分からんような、例えばご理解で、であったなら、もういっぺん、テープで、とにかく自分の心にピタッと来るようなものを、何かそこに頂かせてもらわなければいけません。それが稽古です。信心の稽古。ここにはおかげを頂きに来るところと間違えとる。ね。ここには信心の稽古に来るところです。そしたら、稽古第一信心にはいかんのです。
ね、ところが毎日毎日通っとるし、信心の稽古に通っとるように思うておる、それではいけないと思うですね。
今私の部屋に、金光様のお写真の下に、えー、お花が入れてあります。何ていう花かは知りませんけれども、それ、その、何とか知らんその花が、名も知らん花ですけれども、その花が根づめになって、流したように入れてある花は、朝顔のつるが入れてございます。中々、格好がええ。
もう昨日、一昨日から入っとりますけれども、まーだ、あー水揚げをしとりますからね、もう、つるが上の方へ、こうやって上がったように、こうして、上の方に上がったようにしています。中々、朝顔のあのつる、つるものは、あー水揚げが難しいんですね。
ですから、もう三十分か一時間で、そのとにかく、暑い時にでも切ってきとんなら、あの、下のじゅわっと上の根のほうが、下向いてしまいます。葉は、しゅうしゅうしおれます。ところが、葉も生き生きしておりますが、先のほうの芽が、これから先まで、こうこう伸びていくのじゃなかろうかと思うぐらいに、シャーんとこうして、その辺の根占に何か花が入れてある。そういう、まぁ一輪差しが、あーしてございます。
私どもが、この信心の稽古をさせて頂くと、何とはなしにきつい。いわゆる、倦怠を感ずる。うん。どんなに願っても、願っても、どうも有り難いといったようなものが、ひとっつも湧いてこない。ただ足は教会に向けてはおる、座ってはおる、ご祈念はしておるけれども、一つも、こう有り難いといったようなものに、触れられない。
皆さん、そういうままで帰ってもね、もう帰った時には、じわーっとなってますよ。こういうじわっとしたもんじゃなくて、そこにどういう稽古の材料があっても、それにしがみつくことはできんです。取り込むことはできんです。それによって、稽古さして下さりよるなぁと思うてもです、それをほんとの稽古にすることはできる。それによって、いやわが家でおかげを受けよというおかげになってこない、それでは。ね。
そういう意味で私は、あの、おー、こうして朝参りは、大、大事。ここには信心の稽古に来るというのは、ね、そういう自分の心の中に、神様との繋がりというか、交流というかね、そういうものがあって、言わば、切ったその草花が、水を吸い上げる力というものを、ここでは作っておかなければ駄目です。ね。それを、私は持って帰る。そういう信心の稽古を、様々に工夫さしてもらうわけです。ね。
三、四日前に、やはり、その、そのものを入れておりましたが、すぐどうもしおれたようであったから、また、みんな、今あそこは愛子が承っておりますけども、またすぐ持ってって、それから水揚げをして、また翌日入れとるんです。
なーんかやっぱあそこに、工夫があったんでしょう。やっぱし同じ、それを、何とかこう、ねぇ私ども、(?けど)草むらでもそうです。ね、機嫌が悪いとすぐしおれてしまう。でそこで、しおれてまいりますと、おー、根元を焼きましたり、ね、叩いたり、まいろんな、あー強い薬を根元に塗ったり致しますと、そこからこう水が、あげて、生き生きとそて、言わば、あーそのー鉢の中ででも、花を咲かしたり、いー葉がしゃんとしたりして来るわけであります。ね。
ですからそういう工夫が、なされなきゃならなくなった。もうこちらへ、信心の稽古に通うて来る、言わば、(?しの)来る道すがらでもです、ね、教会に着いたとたんに、もうずーっと水揚げができよるといっておる人がありますね。教会が、もう、かすかに見えてくると、もう心が躍ってくるという人があります。ね、それが、やはりえー、ならその時だけではいけんのでございますから、人間必ずその辺がですね、こう、おー慣れっこんなってしまう、いわゆるマンネリになってしまうわけです。ね。
だから、その信心が、そのーマンネリになってはならないのです。ね、そこんところの工夫を、一つ、うー本気でさせて頂くということが、私は信心の稽古だと、こう思います。ねぇ。
夕べのご理解の中にも申しましたように、四神様が、ね、暑い寒いという日が、年のうち三日とあろうかと仰せられた。その三日とても、気のせいじゃと。その気のせいというところに、焦点をおかれた。ねぇ。
私どもでも、こう日々、こうやって御用さして頂いておりますと、例えば、朝から昼までの御用の中に、三十分か一時間ぐらいはですね、もうどうでもきついというような時があるです。また眠うてたまらんという時があるです。そこはジーっと辛抱させて頂いておりますとです、ね、神様にお供えさして頂いとりますと、何か知らんけれども、心に、いわゆる水揚げができてくるんですね。いろいろな工夫しよりますと。
あぁもう、こう、こりゃ枯れたけんで、といって捨てたらいかん。もうじゅわーっとったけんで、はぁきつかけんでもう立とうと、いうようなことではですね、次のおかげは受けられない。
そういうときには、私は心の中で願う。どうぞ一つ、今、お参りがないように、ね、こういうな眠たいとか、心の状態の時に、えー、あってはならない。お取次ぎはできない。と願いますけれども、やっぱり、そのお参りを、があります。してその、お参りをしておる人のお話を、こう聞かして頂いて、お取り次ぎさして頂よりますとです、そこから有り難うなって来るといったような場合もあります。
ね、夕べの中に申しました、笠さんのことでもそうです、何とはなしにこうきつーい時であった。たら笠さんが、先生今日おかげを頂いてから、散髪のおかげを頂きました、ちゅってくる。途端に私の心の中に、何かしゃんとしたものがうん・・・。
笠さんあなたには、もう散髪されたということだけで、神様にお礼を申しあげられれる(?たいしょう)になるとですねって言って、そのお取次ぎさして頂きよくと、笠さんのその生き生きした喜びが、こちらへ通うて来るんです。それも私が願っておる。はぁ、こんな事では、お取り、よかお取次ぎはできん。こんなことではいけん。一生懸命神様へおすがりしておるところへ、笠さんを差し向けてくださった。
ね、散髪をさして頂いたということだけでも、こんなに有り難い、と言うてお届けをしておられるのが、こちらの方へ通うて来る。
ね、ここは皆さんがお参りをさせて頂いて、私はここへ座らして頂いておる、それを見ただけで、もうお届けをすることがなくなったというほどに、おかげを受けられる。それとおんなじなんです。このへんところも、中々やっぱりよかち言われますよね。
稽古さして頂こう、という意欲というものが、なからなければいけません。ね、そうして、そこにはです、せっかくお参りをしたのであるから、お参りしがいのあるものを頂こうと願わなければ。頂けるなら、そこんところを一つ、ね、(?塩につけるくらいに)、神様の前に座って、(?見るときは)御理解を頂いてみるとか、ね、お広前の(?グリル)をぐるぐる回ってみるとか、なんかすぐ、ここは信心の稽古に来るところであり、稽古場ですから、ここでそれを頂かなくてはいけません。
ねぇ、私は今日は、ここのところを皆さんにね、「ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。」よく稽古をして帰れということは、そういうことだと思う。うん。そこにです、夜の夜中どういうようなことがないとも限らぬ。おかげはわが家で受けよという、わがうちでおかげの受けられる、心の状態。おかげの受けられる、もううちに帰っておかげの受けられる、信心を持って帰ることができるんだと、こう思います。
ね。お広前では有り難いけれども、うちに帰ったらもうなくなってしまうというのは、お広前で有り難いと言うのは、ほんとに有り難いのではなかった。有り難いごたるとじゃったと、ということをまず、思わにゃいけませんですね。言わば、水揚げしよんなら、そげんパタッとどっちかが止まるはずなかですよね。そうでしょうが。まーだ、水揚げしとらんとですよ、ここで。
ね、その水揚げという方法を、私は工夫しなければいけない。ね、同時に、わが家でおかげを受けよとここには言うておられますが、例えば、(?輩出)の中に向けてまいりますようにね、信心の稽古をさして頂く。その信心の稽古の次に、全教一心、全教一家ということが、うー、あ安武さん、唱えておられますですね。
そういう、例えば、ここで有り難いというものを、いわゆる水揚げをしたその心で、ね、すべてのことがわが家でおかげを受けよですけども、そういう心でです、ね、だれかれのことでも祈られる、言わば、お道のことが祈られる、全教一心、全教一家といったようなです、ね、教団を挙げて、そのことに取り組んでおられます、そういう祈りというものが、そういう心でなされる。いかに、千人、万人あってもです、ね、お広前で信心の稽古をして、水揚げもしてない人がです、全教一心、全教一家、唱えってっちゃなーんもならんです。
いかに次にある、世界新の平和何て言ってったって、それはなーんにもなりよらんです。から尋問です。ね、私の心の中に、生き生きとした、そのそういう心をです、もって、例えば、なら身近なことなら、家庭のことが願われる。ね、身近な人たちのことが祈られる。そういう心で、言うなら全教一心、全教一家というような、祈りができれる信奉者がです、たくさんできなければ、現代の金光教の、全教一心、全教一家はなされません。
ね、とても五人、十人でできることではない。そこの根本のところをです、毎日思い出しとるけれども、ここへは信心の稽古をしに来るのである、その信心の稽古というのは、ね、おかげはわが家で受けよと仰るおかげに繋がられるだけの信心の稽古を、しておけということなのです。
ね、例えば、うんなら私が、ここで午前中、有り難いというものを頂いた、その有り難いというものが、私一日を支えるだけではなくて、ここの信奉者の皆さんのことが、その心で願われる。その心で、道のことが、教団のことが、言うならば、世界の隅々に至るまで、ね、あなたのたくさんな難儀な氏子がおります、その難儀な氏子が立ち行きますように、といったような願いをし、致しましても何にもならん。ね、そういう心で、それが願える。もちろん、信心の稽古ですから、皆さん段々です、皆さんのその願いというものがです、少しずつ範囲が広うなっていく、大きくなっていくというところに、稽古の値打ちがあるのです。ね。
毎日毎日、有り難いものを頂いて帰る。毎日毎日、わが家でおかげを受けよと仰るが、わが家でおかげを受けておるだけが、十年、二十年続いたって、これではですね、ほんとのおかげじゃない。ね、それがそういう心で願われる範囲がです、実感的に、私最近感じますことですねぇ。
例えば今申します、皆さんは世界真の平和、総氏子の身の上安全と言うて願っておられますわけですがね、ところが私には、その実感がまだピンと来ないのです。ね。総氏子の身の上安全とか、ね、世界真の平和とか、とてもとても、まーだ私は願われんのです。そういう、言わば、まぁ、私のしと、言うならば、大それた感じがするのです。
世界真の平和、私平和ではなくてもいいと、私の心の中には、ね、例えば、うんならそこには、戦争があっておってもいいと、けれども、その戦争をしておってもです、どういう難儀がそこにあってもです、ね、ね、そこからね、そのままで立ち行くおかげを、ね、負けてん勝ってんそっから立ち行くようなおかげを、双方が頂いてほしいという願いは、もう切です。
世界、総氏子身の上安全、とても私には願われません、まーだ。世界総氏子の身の上安全なんて、とても願われない。それをいくら言うたところで、それは空念仏であります。ね。
身の上安全でなくてもいいて、どういう難儀な中にあってもいいけれどもです、そこから、次のおかげの手がかりができるような、これはもう、世界の隅々に、ね、先日見せて頂いた、頭からこびり付いて、いっつも御祈念のとき外れないんですけれども、どっかオーストラリアかなんかの、田舎の山の中に、住んでおる民族の中でですね、あのトカゲだけが主食だというのがあります。
いっかい、一家中がですね、そのトカゲを追って、その回っているんです。晩休んでも、砂の布団です。砂ん中をこう掘ってから寝るんですよ。小さい子供連れてですね、親子三人で、ほんとその、次から次とその、とかげのおりそうなところをやっていく。まぁ、一尺か二尺ぐらいのトカゲを見つけますとね、親子三人で、ものすごう一生懸命追うていくんですよ。それを何か、特別な道具を一つ持っておるだけですが、そのトカゲをとる道具を一つ持って折るだけです。ね。もう私は、トカゲがどんどん逃げていくとば、子供がこうっやて穴を掘ってからしよる時、金光様、金光様ち、私自分で唱えとるという、聞いてからハッと気が付くくらいであった。
はぁ、もうせっかくあそこへ、獲物を見つけたのですからね、それが取れやしません。獲るかと思ってから獲る。まぁその、器用なもんですね、獲りました。それを、皆より持って集めといてです、晩あそこに火をたいて、それで焼いて、塩もなんもつけません、それを頂くのです。それが、その主食なんです。もうその為に一生懸命。世界の隅々には、まーだそういう原始的な生き方をしておる人たちもあるのです。
やっぱり神様の氏子なんです。ね、そういう人達がです、今日はとうとう獲物がなかった。今日はひもじい思いをしなければならんという人たちが、ね、あろうけれどもね、そういう人たちが立ち行くようにですね、私ども、それを祈られるとき、そんなことをすぐ、頭に思い浮かべるんですよ。そういう人たちがあるんです。
ね、だからもう、ほんとにその、身の上安、あのー安全というとような、まぁ願いはできないにしましてもです、安全ではなくても、なんとはなしに立ち行くおかげを頂かしてもらうようにという願いをさしてもらう。
それはです、私の心の中に、いつも水揚げしてある心、ね、そげな人間ですから、もう枯れ果てたようになってまいりますけれども、そういう時には、工夫をしたり、辛抱をしたりしてです、ね、叩いたり、焼いたり、ね、さして頂いてでも、水揚げだけはしとかなければ、さっという間に合わん。その工夫を、私、精進いたします。
ね、でその信心の稽古をしに来るところとこう言う。だから、皆さんこう信心の稽古をしにきてです、そこに、何とはなしに有り難いものをみ、いわゆる水揚げして帰ってです、ね、うちのつぼん中に入れて、それから、さっとこう、朝顔のつるのように水揚げしにくいようなものでも、方法を講じますと、あのように水揚げすることができる。
ね、私どもの心の中に、中々有り難いっていうふうに頂きにくいけれども、ね、工夫をさして頂きますとできると。ね、そういう心でです、夜夜中、どういうことが起るとも限らん。おかげはわが家で、お、お、受けよと仰るおかげに繋がるものでなからなければならないです。
しかもそのおかげが、わが家でというだ、わが家、わが私のことというだけではなくてです、ね、大きくはただ今も申しますように、世界のね、皆さんの立ち行きとか、各国の立ち行きとか、ね、または、教団のこととか、ね、ご皇室のこととか、金光教のこととか、そういう心で願わなければ、千人、万人、そのことを唱えたところで、役には立たんと。
そして、信心の稽古をさして頂いておる値打ちがです、私の心の中に、段々こう大きくなっていくというところに、信心の稽古、いわば、ね、小学校から中学校にならせて頂いたな、高校にも入らせて頂いたのであろうかと、こう自分でも感じれるくらいに、段々ほんとなことへ、大きくその祈り、願いていうものがなってかなきゃならんがです。その願いが、祈りがです、ね、水揚げもしとらん心で願ったって駄目だと。ということを、今日私、今日は一応したわけでございますよね。
どうぞ、ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。果たしてよく稽古をして帰っておるか、しかもその心はです、わがうちでおかげの受けられるおかげに繋がることのできるような心であろうかと、検討さしてもらえる。もしそれが頂けないなら、時間をかけてもかんまんから、そこんところの心を頂けるまではです、お広前のぐるりでもええから、ぐるぐる回ってでも、何かそこに、ね、有り難いものを頂かしてもらえれる工夫が、なされなければならんのじゃなかろうかというふうに思います。
どうぞ